タイニーベル・令嬢と慰めの報酬

第1話 呪われた侯爵令嬢

 大きく息を吐いて彼は乞う。
「ああ、今夜は君を家に帰したくないな」
 部屋に若い男女が二人。幼い頃からの付き合いにして婚約者同士である二人。 長椅子に寄り添う王子殿下と侯爵令嬢。何も起きないはずがなく――否、既にプロブレムは起きていた。
「……タイニー・ベル。やはり僕は君を家に帰したくない」
 王子殿下は侯爵令嬢の細い手を取った。
 陽に透けた銀色の髪が、目に眩しい。風に寄せては返るカーテンが、昼下がりの光を周囲に振り撒いている。
 すっと通った鼻筋。白い肌はきめ細かく、そこらへんの女性よりもよほど透きとおっている。 銀色の睫毛の影が落ちた双眸は、どこまでも冴え渡るような青空と同じ色だ。ヘンリー・ロー・サージェント。現国王は彼の祖父であるが王太子である彼の父と共に健康診断の結果は年単位でオール良好、三人の兄王子もそろって頑丈、王位継承権とは遠すぎる第四王子様である。
 そっと骨張った手を握り返し、侯爵令嬢は頷いて見せた。
「殿下、お気持ちは嬉しく思いますがそうあまりにも心配されるとかえって心が痛いです」
「タイニー・ベル……」
 真剣にこちらを覗き込んでくる青い瞳、そしてその瞳に映るなんとも間抜けな自分の姿に、タイニー・ベルは頭を振った。明るく笑って指で示す。
「たまたま耳からネギが生えただけではありませんか。 それもまさか殿下の扉を開いた風圧でわたしがよろけた拍子に偶然にも令嬢たちのめくるめく恋のどきどき☆トライアングル☆キャットファイトに巻き込まれて! 不可抗力というものですので殿下が気になさる必要は全くないかと!」
「……君、やっぱり怒っているよね?」
 王子殿下は何故か頬を引きつらせた。
 タイニー・ベルことイザベル・オーキッド侯爵令嬢は婚約者殿の瞳の中の自身の姿を改めて確認した。 やや色の暈けた金の髪と淡い薄紫の瞳。『タイニー』の愛称通りの小柄な少女が映っている。そう。耳から瑞々しい青々とした長ネギが生えた他は極めていつも通りである。
「だって、君、どうするんだい?」
「わくわくします!」
 即答するとヘンリーは握る手のひらに更に力を入れた。少々痛い。
「あのね、どういう気持ちなのかではなく、君が今夜は食事会なのにどうするつもりなのかを知りたいんだけれど」
「だって、ロー様、耳からネギですよ。耳からネギ! 人生山あり谷ありとは聞きますけれど耳からネギ生やすことって極めて珍しいことですよね。 それに王宮での晩餐会は美味しいデザートが付きものですから。一度きりの人生、大事にしなくては!」
「……君のポジティブさに救われることは多いけれどこんなにも救いようがない気持ちは初めてだよ」
 やっぱり家に帰したくないなあ、と王子殿下は深々と嘆息した。

 静かな研究室の片隅。イザベルを文字通り長椅子に担ぎ込んで以来、ヘンリーは彼女の隣にようやく腰掛けた。机にそびえ立つ論文の山に置かれた懐中時計に視線を投げれば、最後に時間を確認してから二時間は経っていた。彼が用意してくれた熱い紅茶が入っていたはずのティーポットとカップは、すっかり冷めてしまっているようだ。
 机と椅子と本棚ばかりのこの部屋は、大量の書物と紙に囲まれていた。秤や水晶玉、色とりどりの鉱石に、深緑の葉が伸びる鉢植えなども確認できるが、机と床に高く積み上げられた図面やら論文やらの文鎮としての役割の方が大きいようである。
 彼はイザベルの手を取ったまま顔をうつむけた。銀髪の奥に隠れた青の瞳は伏し目がちになり、想いに耽っているように見える。そうしていると端麗な顔立ちが一層際立つのは、本人だけが知らないらしい。
「ロー様は心配性ですね」
「君が底抜けにポジティブだからね。心配するのが習慣にもなるよ」
 カーテンが風に翻り、午後の陽射しがヘンリーの銀髪を明るく照らす。やれやれと息を吐く表情さえも美しい。『嘆きの殿下』という題名で額縁に入れられても不思議ではないくらい麗しい。既に宮廷画家が何枚も描いているかもしれない。このひとは正真正銘の王子様なので。
 青空と同じ鮮やかさの瞳に耳の穴からネギを伸ばした自分が映り込んでいるのを見つけると、なんだかいたたまれなくなる。けれども――顔をうつむけて、自分を落ち着かせるためにそっと息を吐き出した。
「大丈夫ですよ」
 言葉を区切る。
 ヘンリーは小さく首を傾ける。
「特に痛くもありませんし、いつもと同じように聞こえますから。それに、身体に負担がないもので今週末には効果が消えて解けるはずだと保証してくださったんですもの。この王立魔術研究所で。貴方が」
 握られているヘンリーの大きな手にもう片方の手を重ね、その青い瞳に目線を合わせた。
「これ以上に安心できるものが他にありますか?」
「そうかな」
「そうですよ」
「……そうだね」
 イザベルの視線に観念するようにヘンリーはこくりと首を動かした。彼がその澄んだ青の瞳の中心に自分を映してくれている。それを意識するとイザベルの胸はいつだって甘く焦げそうになる。

「身体に負担がかかるようなものではないけれど、何か少しでも不調があればすぐに報告すること」
 ヘンリーの顔が『魔術師』に切り替わっていた。つられてイザベルも背筋を伸ばす。
「効力の弱い簡単な術がぶつかりあっただけだ。でも、けっして無理に解こうとしないことを約束してほしい。術の効力が弱くてもややこしく絡み合っているからね」
 王立魔術研究所付きの魔術師の落ち着いた声音に耳を澄ます。
 この国では王が在位はしているものの国政は出仕している官職の参与で成り立っている。有事の際の最終号令こそ王家に委ねられてはいるが、社会情勢も経済も産業もほぼほぼ安定、隣国との関係もおおむね友好であり、三世代遡っても公式催事でしか国王は王杖を掲げたことがない。
 サージェント王家の王子たちも政治学や社会学、経済学も修めてはいる。だが、現国王である祖父も王太子の父も健康そのもので、孫世代である王子たちはよほどのことがない限り彼ら自身の手で王杖を持つことはない。要するに自分の食い扶持は自分で賄えということである。第一王子こそ外交官を担っているが、弟王子たちはそれぞれ官職とは離れた界隈に身を置いている。 第二王子は音楽家としてヴァイオリン片手に国内を飛び回り、獣医の第三王子は西へ東へ日夜奔走している。そして、ヘンリー・ロー・サージェント第四王子殿下は王立魔術研究所の研究員として勤めているのであった。

「それからそのネギを無理に抜こうとしたり粗雑に扱ったりしてもいけない。効力が強まるとか、心身に負担がかかるとか、とかく呪いにはそうした性質があるからね」
「はい」
 よろしい、というように殿下は深く頷いた。それから右手にティーカップを持ち、左手はカップの底部に近づける。小さな紅い炎がぽっと揺れては消える。
 温もりの戻った紅茶を手渡され、イザベルは目を細めた。
「ロー様、なんだかまだ面白くないお顔をなさってますね」
 眉根を寄せたままのヘンリーを見上げて首を傾げる。
「面白いはずがないだろう。大事な子に呪いがかけられて」
 子どもっぽく拗ねた声にイザベルの頬は熱くなる。一旦冷めて渋みが増したはずの紅茶が、なんだか甘い。
「それに、魔術師である僕が結局のところ術の効力が消えるのを待つしかできないのも面白くない」
 彫像のように形のよい銀色の眉は情けなく下がっている。つまり、かわいい。
「……おまけにオーキッド侯爵と兄君には『昔から決まったあれまでなら許しますがそれ以上は許さん』って釘を刺されるし」
 柳眉を下げたまま彼は口を尖らせた。
「君の方こそずいぶん楽しそうじゃないか」
「予定よりも長く貴方と一緒に居られましたから」
 カップに口を付けて頬が緩むのを堪えたつもりが、つい口が滑ってしまった。 はっとヘンリーを見上げると、彼は何故か両手で顔を覆っている。いつも穏やかな王子様然とした――正真正銘の王子様なのだが――この年上のかわいいひとが、今日だけでたくさんの表情の変化を見せてくれているのだ。楽しくもなる。

 そもそもの発端といえば、今夜の王宮での晩餐会に持参する手土産選びに菓子店に行く話をしたら、ヘンリーが研究所の昼休憩ついでに同行を提案してくれたことにある。たまたま彼が店の建て付けの悪い扉を開けた拍子にたまたま強風にあおられ自分が転がり、たまたま隣のカフェのオープンテラスで繰り広げられていた『めくるめく恋のどきどき☆トライアングル☆キャットファイト』に遭遇し、たまたま令嬢たちが同時に放った魔術が転がりこんだ自分に当たり、たまたま術式が絡み合ったことで長ネギが耳から生えてしまったのである。
「『不幸な玉突き事故の見本市だね』と先ほど兄に笑われました」
 イザベルの父も兄も専攻分野は異なるが、ヘンリーと同じ王立魔術研究所勤めの魔術師である。ヘンリーが血相を変えて文字通りイザベルを王立魔術研究所に担ぎ込んだわけだが、どちらも興味深げにイザベルの耳と長ネギを観察するだけで「特に問題なし」「要観察でよし」「殿下、あくまでも許可するのは昔から決まっているあれまでです」とヘンリーの属する植物研究室にさっさと放り込んだのである。在室していた同僚も何故か「姫にかけられた不幸な呪いには昔からお約束の解呪方法が」「お茶はおかわり自由ですので」「あとは若いお二人で」と足早に出て行ってしまい、これまた何故か戻ってくる気配が一向にない。
 結局、呪いの術式の解読は王子殿下にしていただくことになったのだ。ヘンリーはイザベルを長椅子に座らせ、終始丁寧な問診と触診、魔力の残滓の観察と検分を重ねた。そして、弱い魔術と魔術が複雑に絡み合っているが身体に負担はないこと、七日もすれば魔術の効力は自然と抜け落ちること、術式解体よりも自然消滅を待つ方が安全であるということをつい先ほど証明してくれたのである。

「やっぱり君を家に帰したくない」

 彼の零したため息が、イザベルの肩にやわらかに届く。所在なく胸元のリボンに伸ばした指先が、震えた。誰からも『麗しい王子様』と謳われるヘンリーのどこまでも真摯に注がれる魔術師としての横顔をこんなにも物理的に近くで見つめているのだ。意識しながら直視するのは、なんだか妙にどきどきする。
(でも、殿下のお仕事も研究室も拝見できたのは嬉しい)
 やっぱり頬が緩んでしまう。
「君が家に帰ったらオーキッド侯爵も兄君も君の呪いを面白がるだろうし、僕の見立てにもこれから口実として試す昔からお約束のあれにも絶対に口を出すに決まっている」
 疲れたように銀髪を掻き上げ唇を尖らせると、彼は背もたれに深々と寄りかかった。
「でも家に帰らないと晩餐会に行く支度もできませんし、殿下と一緒に夕べを過ごせません。楽しみにしていたのです。髪飾りをいただいてから、ずっと」
 上目遣いでお願いすると、彼はまた何故か片手で口元を覆っている。
「……君ほど優秀な殺し屋はいないだろうな」
「なんのことです?」
「殺し文句が恐ろしく的確で……嬉しいってこと」
 肩におろしている髪にヘンリーが指を絡めた。形の良い唇に一房を押し当て、彼は真っ直ぐイザベルを見つめた。そこにある青は深く、強い。果てのない青空を閉じ込めた瞳が綺麗な弧を描いて細められる。そのひとの声がやわく耳に近づいてくる。
「未来永劫、僕限定であることを願いたいね」
 イザベルは思いきり頬を緩めてしまいそうになる。それをなんとか堪えて、瞳を伏せた。
「仰せのままに」





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