正面から吹く風が、彼の横を通り抜けて庭園の奥へと抜けていく。 上には透けるような青空がどこまでも広がっている。気分のよい気候である。 彼は、困惑していた。 原因は、目の前の少女。頭がせいぜい彼のお腹までしか届かない背丈の少女である。 彼女は首を上に向け、こちらをじっと見上げている。零れ落ちてしまうのではないかと錯覚してしまうほど、大きな蒼色と琥珀色の瞳を思いっきり開いて。 ――首が疲れてしまうかもしれない。 とりあえずそう判断し、彼は少女の目線に自身のそれがかち合うようかがみこんだ。 口をぎゅっと結んで目に強い光を灯している様は、少女の固い決意を感じさせる。 「……サティ。もう一度言ってくれないか?」 「いーですよ」 丁寧だが、小さな女の子特有の舌足らずな声が飛んできた。 「どろだんごの作り方、おしえてください」 「どろだんご……?」 呆然と繰り返すと、少女はこくりとうなずいた。 もう一度頭の中でそれを反芻し、疑問符を浮かべた。意味がよく分からない。 何もできずにしばらくサティの瞳を見つめる。 「…………」 「……だめ、ですか?」 サティの泣きそうな声で彼は意識をこちらに戻された。こちらが黙り込んだのをどうやら却下のサインと取ってしまったようだ。 「そうではない。ただ、『どろだんご』について考えていた」 「?」 今度は少女の顔に疑問符が浮かんでいるのが見えた。 「『どろだんご』がどういうものなのかをお前がおれに教えてくれたら、こちらも作り方を教えることができるのだろうかと考えていたのだ」 「えっ? ベルさん、どろだんご、しらないんですか?」 ひっくり返った声にベルは素直にうなずいた。 彼女はやれやれ、と困ったように肩をすくめてみせる。見覚えのあるその仕草に彼は目を瞬かせた。知り合いと――その孫も――よくやるジェスチャーだ。どうやら彼女も最近覚えたらしい。そういえばこの少女はあの家に少々事情があって、ここ二年ほど身を寄せているのだった。丁寧だが、このどこか舌足らずな印象の強い口調もその影響があるのだろう。 それだけの情報を頭の中に浮かべていると、少女の快活な声が飛んできた。 「ええっと、どろだんごは、どろでできたおだんごです」 「そうか。泥でできた団子のことか。泥遊びの定番だな」 ようやく合点がいき、彼は大きくうなずいた。 けれども、その反応に彼女はぷう、と頬を膨らませた。 「そうですよう。はじめからそう言ってるじゃないですか」 「そうか。すまなかった。そういう名前があることを、おれは今初めて知ったんだ」 「それならしかたないですね」 あっさり納得し、彼女は再び肩をすくめた。 「でも、お前はそれがどういうものかを知っているのなら、おれにあえて作り方を聞く必要はないのではないか?」 すると、彼女は困ったように眉を下げた。 「どういうものかは知ってますよ。でも、作り方を知らないんです」 「なぜ?」 「だって……だって、ハル君とはいつもおうちの中か『新世界』ぐらいでしか遊んだことないんだもん」 おろり、と少女の瞳が泳ぐ。みるみるうちに少女その大きな瞳に涙が溜まっていく。 「おばあちゃんが、ベルさんは土いじりの名人だって言ってたからおねがいしたのに……」 思わず大きなため息が漏れた。隠しもしなかったため、相手が泣くかと警戒するが――彼女は必死で泣くまいと耐えているようで気づいた素振りを見せてこなかった。もう一度――今度は小さく嘆息する。 サティは、大いなる誤解をしている。土は土でも畑が違う。そもそも彼にとって、ガーデニングはあくまでも趣味の範疇なのだ。 どうしたものかと考え込む。 とりあえず、彼にできたのは一つのことだった。亜麻色の髪に覆われた頭をゆっくりと撫でてやる。 「……教えないとは言っていない」 「じゃあ、おしえてくれるの?」 涙の浮いた目で、彼女はおそるおそる目を向けてくる。 ベルは目の力をふっと抜いてうなずいてやる。それからもう一度そっと頭を撫でた。サティの顔にようやく笑みが戻る。 「ひとつ、聞いておきたいんだが」 「なんですか?」 底のないきらきらと輝いた瞳で聞き返してくる。表情がくるくると変わる様はうらやましい一方で大変そうだなんて思いながら、彼はゆっくりと口を開いた。 「泥団子を作ってどうするつもりだ?」 「ハル君に送るんです」 「ハルドに、泥団子を……?」 こちらが疑問いっぱいの眼差しを向けているのを感じ取ったのか、サティは大きくまばたきをした。 けれども、すぐにわくわくしたような声で元気よく答えてきた。 「ハル君がエセルから送ってきてくれたおかし、えんぴつのしんとか土みたいな味がしたんです」 「……鉛筆を、食べたことがあるのか?」 彼が目を丸くすれば、大いに心外だと言わんばかりに彼女は口を尖らせた。 「ないですよう! えっと、こういうのって『ひゆひょうげん』っていうんですよ。おとうさんが言ってました」 「……なるほど」 「ああ、もう! そうじゃなくて!」 サティがこちらの袖を強く引っ張った。その声の調子が激しかったので、彼は驚いて少女を見る。 彼女は頬を上気させ、ひどく興奮した様子だった。 「ひとからプレゼントをもらったら、しかえしに送るのが筋ってもんだから送るんですよう!」 「わかった。一応確認しておくが、お菓子の『お返し』に送るんだな?」 「もう! はじめからそう言ってるじゃないですか!」 ぽんぽん、とその頭を叩いてやる。 「こどもあつかいしないでください」 両手でその手をがしりと掴み、サティは口を尖らせた。 「……扱いも何もお前は、おれよりは子どもだろう」 即答で返したら、即答で返された。 「じゃあ、おじさんってよんであげます」 「やめてくれ」 耳朶を打つ、少女の感嘆の声。 「しっぽがくたくただ」 垂れ下がってしまったこちらの尻尾に視線を注ぎ、目を丸くしている。振ってごまかそうにも力が入らない。――彼女の提案はそれほどの威力を持っていた。 興味津々に眺めてくる相手から目線を外し、ベルは空を見上げた。 「あと二時間といったところか」 「?」 きょとんとまばたきをするサティの手を取って、立ち上がる。 「郵便局が閉まるまでの残り時間だ」 「え、それって……」 「善は急げと言うからな。今日中にハルドに泥団子を送ってやろう」 「はいっ!」 弾むようにうなずいて、少女は顔をほころばせた。 冷たさの混じる風が、今度は横から吹き抜けていく。 握り返された手は小さくて、温かった。 泥まみれの狼人が郵便局へ向かって巨大な玉を転がしていたとか、その光景に稀代の魔術師が腰を抜かしたとかいう噂がファティマ中に流れたのは、それから間もないことである。 |