ふと足元に違和感を覚えて、ベルは歩みを止めた。
セレスト大聖堂の敷地を守るようにぐるりと囲む柵。そこから長い紐が垂れて地面に落ちている。
聖都ファティマを訪れる観光客は老若男女を問わない。ファティマだけでなく、各地の観光局がこぞってツアーを組んでいるほどである。
特にこのセレスト大聖堂の見学はツアーの定番にして、一番の目玉企画になることも多く、毎日数えきれないほどの観光客が訪れる。
もしかしたら誰かが足を引っかけてしまうことがあるかもしれない――
そう判断し、ベルは結び目をほどきにかかる。
ほどいた紐をポケットに納めて再び歩きはじめる。と――
「?」
道の少し先でまた同じくらいの長さの紐が柵から伸びている。今度は結び目が五つ。こちらもまたすぐにほどいて回収することにした。
最後の一つをほどくと同時に、ほう――と息が漏れた。先ほどよりもきつく結わえてあったのだ。
こちらもポケットに入れた瞬間、彼は自分の両目を疑った。
視線の先でその光景が延々と繰り返されていたのである。
ベルの足は考える間もなく紐が続く方向へと動き出していた。道順からしてちょうど彼の進路方向と同じだったようで、結び目をほどきながら坂道の起点に辿り着いた頃には宿舎の正門が見えてきた。
紐の長さや結び目の数にそれぞれ違いはあったものの、結び方はどれも共通していた。小さな一つの輪が引き締められた止め結びである。
回収した紐の束を手にしたまま首をひねった。
「いたずらか?」
「ちがいます」
鋭く返された。
「サティ」
正門の前に小さな友人が一人で座っていた。
学校の帰り道なのだろう。大きなバスケットを膝に抱えている。少女が小柄だからバスケットが大きく見えるのか、バスケットが大きすぎるから余計に少女が小さく見えるのか。
判断はつかないが、このまま会話を続けたらサティの首が疲れてしまうだろう。
近寄ってベルも膝を折った。片手分よりも年少の友人に視線を合わせ、うなずいてやる。
「……そうか。まじないか」
「そっちもちがいます。メールと約束してますもん」
ぷうと頬を思い切り膨らませ、サティは右手の小指を立てた。肩まで伸ばされた亜麻色の髪が揺れ動く。小さな左手は胸元のブローチへとかけられている。銀色のそれは陽光をきらきらと弾いていた。
この小さな友人は、とある事情から魔術およびそれに準ずる行為を一切禁じられているのであった。
蒼色と琥珀色の瞳へ視線を戻す。
「……学校で何があったのか、おれが聞いても良いか?」
サティは唇を引き結んだまま左右に首を動かした。
「それならばウェントゥスにはきちんと話すといい」
少女の父親の名前を出してやる。すると、先ほどよりも大きく横に首を振られた。
「なぜ?」
「……」
いらえはなかった。ベルは少女の顔に眼差しを注ぐ。
蒼色と琥珀色の大きな瞳が揺れ動き、みるみるうちにそのふちに涙が盛り上がっていく。
彼は少女の頭をそっと撫でた。小さな声が、空気を揺らした。
「おとうさんがこまるもん」
「……なぜ?」
泣く一歩手前の表情だった。けれども少し待ってみたら、なんとか息を整えて、サティはあとを続けてきた。
「…………だって、おかあさんにおしえてもらえばすぐにできるよって言われたから。ちょうむすび」
身体を震わせて、サティは大きな息を吐く。
「……そうか」
この少女は父親と親子二人きりで暮らしているのだった。物心つく前に母親は亡くなったのだという。
ベルもまた母親というものを知らない。知らないという事実があるだけでそれ以上の感情を持つことはなかった。
けれども、周りから時折向けられる同情や哀れみの色を帯びた眼差しがわずらわしく感じることはあった。
向けられた気持ちが時にはナイフになったり、重く圧し掛かったりすることもある。
けれども、サティが言うように父親のウェントゥスは困りはしないだろう。ただ彼はかなしむだけだ。
――娘が彼を思って小さな秘密をしまい込んだということを。秘密を作って胸を小さく痛めているということを。
「そうか。秘密の練習だったんだな」
こくりとサティがうなずいた。
やがて少女はぱちぱちとせわしなくまばたきを繰り返した。零れ落ちそうな涙を堪えようとしているらしい。
亜麻色の頭をベルは静かに撫でる。
「……お前は知っているか? おかあさんに教わるよりも秘密に練習するよりも早く上達できる結び目チャンピオン特別講座。
朝飯前ならぬ夕飯前の蝶結び高速マスタープラン。なんと今ならチャンピオンと一緒に食べる『ヘイゼル』のメロンパン付き。入会料は無料、受講料は出世払いのスペシャルプライス」
溜息と共に感嘆の息を少女が漏らした。
「へえ。すごいなあ。そのチャンピオンはどこにいるんですか?」
「今、お前の目の前にいる」
潤んだ蒼色と琥珀色の瞳がまあるく見開かれた。
「おはよう、ベル。今朝も早いね」
天上から声をかけられ、ベルは剪定鋏の動きを止めた。声のした方へ身体を向ける。
冷たさの残る朝の風。柔らかな緑の匂いが鼻を掠めた。
「おかえり、ウェントゥス。午前様か」
年嵩の友人が枝からこちらを見下ろしている。明け始めた空を背景にして、その黒いシルエットがくっきりと映った。
「いやだな、朝帰りは朝帰りでも仕事だよ。なんとも都合のいいことにこの姿でも夜目は利くものだから」
やれやれとでも言うようにウェントゥスは黒い両翼を広げてみせた。空の蒼を切り取ったような色合いの双眸が僅かに和らいだ。
「おかげさまでレヴェランド・メールには終日こき使われていますよ――おやおや。勤務時間外だよ。少しくらい息抜き代わりの愚痴は許してくれないか」
君は実に真面目な子だなあ感心感心――と子供をからかうような口調。深いサファイアが細められる中に、真顔の自分が映っているのをベルは認めた。
「今から報告に行くのか」
「うん。でも、メールの所へはもう少し経ってから行くつもりだよ。
迅速な報告を心がけようにもまだ始業時間までだいぶあるだろう?
さすがに徹夜明けでくたびれているところに金だらいを落とされたら敵わない――それまでは一度家に帰ってうちのお嬢さんの顔でも見るよ」
特にどうとでもないというようにつけ加えられた一言だったが、そちらが本来の目的なのだろう。何だか声の調子が弾んでいる。
「それはいいな。登校前に間に合うだろうし、サティも喜ぶとおれは思う」
「ありがとう。それじゃ、また」
ウェントゥスが両翼を広げ、すぐに閉じた。
「ベル。素敵なリボンだね。君の尻尾の色に良く映える」
「ありがとう。昨日、弟子が卒業記念に選んで結んでくれた」
答えてベルは目許を和らげた。
その栗色の尻尾には綺麗に同じ大きさの輪を二つ作った空色のリボンが風に揺れている。
弟子の父親が不思議そうに何度も何度もまばたきを繰り返していた。
リボンの弟子