戸を開ける。あたたかな灯りが、彼の身を包んだ。ひとけのない店には、やはり夕方になっても客っ気はなかった。
 ただ主人が、散らかった机に向かい、何事かを紙片に書きつけたり、壜を矯めつ眇めつしたりしている――新しい商品の開発なのだろう。
 店内をぐるりと囲むように並べられた棚。よく熟れた果実のような輝きを放つ鉱石、夜明け前の薄い白と紫の色とを混ぜ合わせたような色合いの鳥の羽、夕陽を溶かしこんだ輝きを放つ鱗、やわらかで瑞々しい新芽の翠色を閉じ込めたような砂が入れられた壜や箱が段のあちこちに所狭しと並べられていた。
 侘助の店である。元々は彼の祖父が開いたという話だが、父親はおろか、姉も兄も継ぐことをしなかったので末弟の侘助が貰い受けた。
 彼はすぐにこちらに気が付くと、声をかけてきた。
「おかえり、ポチさん」
「ああ」
 ポチ左衛門は適当に尻尾を振って、応じた。見回して、聞く。
「お得意さんとやらは帰ったのか?」
 侘助が手元の匙と壜に注意を戻しながら、答えてくる。
「うん。さっきね」
「そうか。それならば、ここに居ても問題ないな」
 吐息して、ポチ左衛門はその場に寝そべった。全身真っ黒の獣である。頭から尾までをすっぽりと覆う艶のある被毛が、今はぼさぼさと毛羽立っていた。
 ははは、と笑い声が落ちる。侘助が再び手を休めてこちらへと向き直ってきた。
「無理に外出してもらって悪かったね、ポチさん。あのお得意さんは、その……犬がめっぽう苦手だから」
「犬ではないと何度言ったら分かるのだ。あの客もお前の姪も……!」
 苛々と牙を剥くと、侘助が気楽に首を縦に振った。
「分かってます。分かっていますとも。俺も姪もお得意さんもね。ただ、彼の場合はどうも頭では理解していても体が反応してしまうんだから、仕方ないだろう」
 カイゼル髭を蓄えた中肉中背の人の好さそうな男を思い出し、ポチ左衛門は半眼になった。曰く、子どもの時分に尻を噛まれたことがあって以来、犬を見ると冷や汗が止まらぬとのことである。彼はわざわざ侘助の店に好んで来るくらいの客なので、『店』にも『お取り扱い品』にも『店の者』にも十分理解があるはずなのだが――もっと言えば、彼もまた侘助と同じ側の人間なのだが――高尚たる生き物が犬にしか見えぬとは、なかなか難儀な男である。
「まあまあ。そう怒るなって。わざわざ外出してもらったポチさんにってお駄賃置いていったんだから」
「ほう」
 尻尾がうきうきと揺れるのを感じながら、ポチ左衛門は机に近づいた。
 新聞紙を折り曲げて作られた皿の中には、小さな油紙に包まれた四角いものが転がっている。
「キャラメルか」
 思わず喉を鳴らすと、侘助が頬を緩めた。
「ポチさん好きだもんなあ、それ。最初は歯にくっつくから好かぬとか言ってたくせに。お得意さん、わざわざポチさんのために買ってきてくれたんだよ」
 頷くと、ぱきぱき、と首の鳴る音がした。
「おやおや。ずいぶんお疲れのようですなあ」
「……お前の姪のせいだぞ」
「おや、こづさんが?」
「こづさん」とは、侘助の姪「小鶴」の愛称である。この春に学校に上がったばかりのピカピカの一年生である。
「……あの娘、近頃は物差しに熱中していてだな、お使いを済ませるまでにあちこちのものを測り始めるから、止めるのに随分骨が折れたぞ」
 うんざりとポチ左衛門が外出での出来事を簡単に話すと、侘助は相好を崩した。
「まあまあ。学校に上がると世界が一気に広くなるからねえ。一年生は毎日が新鮮で楽しくて仕方がないんだ。大目に見ておやりよ」
 宥める声も、その眼差しも随分やわらかい。

 ――そういえば、こいつは店を継ぐ前の少しの間、「センセイ」とやらをしていたのだったな。

 思い出し、ポチ左衛門は尻尾を下げた。
 大きな手のひらが、背を滑った。侘助がポチ左衛門の傍らにしゃがみ込んでいた。彼はゆっくりと丁寧にポチ左衛門の背を撫でていく。
「ぼさぼさだなあ。どうやらポチさんのことも熱心に計測したようだね、探究心が旺盛であられる我が姪御様は」
「ああ。まったく酷い目に遭った……」
「目が死んでるぞ、ポチさん……」
「…………」
 小鶴は興味の針が示したものにはとことん食らいつく。その旺盛な探究心にポチ左衛門も数えきれないほど巻き込まれてきた。街のあちこちの長さを測って回るのを何とか食い止めるのに成功したが、次なる試練がポチ左衛門に立ちはだかった。
「信じられるか? あの小娘、お使いが終わるより前に日が暮れると止めてやったら止めてやったで、今度は私の耳の長さやら鼻の高さ、目と口の幅、尻尾の長さやらあちこち測り始めたんだぞ。まったく。私を何だと思っているのだ」
「まあ、珍しい大きな犬くらいの認識だろうねえ」
 のんびり言ってのける侘助にポチ左衛門は吠えた。
「犬ではない!」
 ぴり、と全身から小さな稲妻が走り、毛が逆立った。咄嗟に背中から手を放した侘助が、腹を抱えて笑い始める。
「はははは。それで、ポチさん計測大会は日が暮れる頃に解散になったんだ」
「笑うな!」
「まあまあ。それはさぞやお疲れでしたね、ポチさんや。……どうする? こづさんに会いたくなければ、今夜の晩飯は遠慮しとくかい?」
 しょっちゅう姉夫婦の家でご飯のお相伴に預かる二人である。今夜も性懲りもなくその予定であった。
「しない。行く」
 ポチ左衛門は顔を上げて、きっぱりと断言した。
 侘助が笑い声を立てた。
「ポチさんは本当に食いしん坊だなあ。今夜は何だって?」
「豚肉と大根の煮物だと言っていた」
「へえ。それは楽しみだ。それじゃ、ポチさん、晩飯までの繋ぎだからね、キャラメルは二つまでだよ」
 侘助はポチ左衛門に噛んで含めるように言い聞かせると、キャラメルの包みを二つだけ寄越してきた。



 ポチ左衛門がキャラメルを口の中でゆっくりと転がしている間も、舐め終わり甘さとやわらかさを思い出している間も侘助はまだ作業に齧りついていた。
 カイゼル髭の得意客からは、「角の立たない程度の緩やかさで相手の方からお断りを入れてもらうためのもの」を依頼され、「たちこめる暗雲」を作成しようとているらしい。
 彼は壜の中身に発生したふわふわしたものを掻き回したり、灯りに照らして透かして見たり、紙片に何事かを書きつけたりと忙しない。目が回りそうな精密作業の様子から視線を外し、ポチ左衛門は腹を地面につけた。欠伸をしつつ、小さき者とのお使いから持ち帰った包みをなんとなしに見つめる。
 欠伸を隠そうともせずに、侘助が尋ねてきた。
「何だい、それ? もしかして、姉さんからのお駄賃か?」
「いや、肉屋で土産を貰ったのだ」
「おや、良かったじゃないか」
 作業に戻った侘助だが、何か引っかかるものがあったのか、こちらにもう一度視線を寄越してきた。
「ポチさん、まだ味見していないのか?」
 うなずいてやる。侘助はそれだけは予想していなかったというように、ぱちぱちとまばたきを繰り返した。
「腹の具合でも悪いのかい? 明日は雨かな」
 窓の外をしきりに気にし始めた彼の気配に鼻を鳴らす。
「違う」
「何だ。入れ物の蓋が開かないのか。あと少しで術が完成するから待って」
「それも違う」
「え? 違うのか。そんなに晩飯が楽しみなのか?」
 迷路に陥って、彼はひたすらに聞き返してくる。ポチ左衛門はうなずいてみせた。
「違うと言っているだろう。骨だからだ」
「は? 骨?」
「あの肉屋の主人、骨を寄越してきたのだ。まじないなど私はせぬぞ。魔術師ではないからな」
 今度は相槌がなかった。ついでに侘助の姿もなかった。なんとなく首を伸ばして見やると、机の向こう側で天井を仰いだ姿勢のまま彼が倒れているようだった。ポチ左衛門はゆっくりとまばたきをした。
「寝たのか?」
「……いや、こけただけだから」
 うめき声をあげながら、のそのそと起き上がる主人に、侘助は嘆息した。
「寝るのなら布団で寝ろ。煎餅布団でもないよりましだろう」
「分かってるよ」
 ようやく姿勢を戻した彼は、何故か疲れているようにも見えた。再び壜を振ると、数拍分の沈黙をはさんでから言ってくる。
「……参考までに聞きますが、高尚たる生き物は骨を食す嗜好はおありなんですか?」
「骨を食す? 何だそれは? ありえん。犬じゃあるまいし」
「あ、さいですか。そうですよねそうでしたよね……」
 高速で身を翻し、腹を抱えて小刻みに背中を震わせ始めた侘助を、ポチ左衛門はいぶかしく見つめた。
「どうした侘助。腹でも痛むのか?」
「お、お構いなく……!」
 絞るようにそれだけを吐き出すと、彼の背中が再び震え出した。ポチ左衛門が机に乗り出して背をさすってやると、ますます背を折り、苦しげに咳き込み出す。
 やがて、眉間に皺を寄せた侘助が、息も絶え絶えに呟いた。
「冗談にもほどが……」
「うん?」
 分からずに見つめていると、落ち着いたのか、それともこちらの怪訝な目つきにようやく気付いたのか、侘助は姿勢を正した。
「ああ、ごめんごめん。その、ほら、まじないも占いも魔術の一つだろう? あらゆる手段を駆使して魔術を扱おうとする俺たちと違って、犬……じゃない、ポチさんたちにとって魔術は呼吸やまばたきくらい近いのに使わないんだな」
 小さく「骨も」と付け加えられたようたが、ポチ左衛門の耳は、外から戸を叩く音と同時に響いた小鶴の弾んだ声に気を取られていた。
「ポチさん、叔父さん、ご飯できたよっておかあさまが」
「……未来だとか運命だとかに我々は干渉しないからな。そうしたものを気にしたり憂えたり、あまつさえ変えるという無茶を仕出かすのはお前たち人間くらいだ」
 ポチ左衛門はそう言って、灯りの下で溶けだしそうな青色の双眸を緩く細めた。



 仄かに霞んだ月の光が一行を優しく照らす。先頭をぴょんぴょん跳ねて歩くのは小鶴で、その後ろをポチ左衛門と侘助がのんびり追いかける。
 淡く照らされた庭にさしかかると、瑞々しい若葉へと姿を変えた桜が見えてきた。行く春を惜しむように健気に根元に踏みとどまる花びらを横目に、侘助がうなずいた。
「そうだ、ポチさん。貰った骨の話だけど、うちの桜の木の根元にでも埋めるといい。肉屋の親父さんには、ポチさんがそうしたって話しておくから」
 きっと土産の甲斐があったと喜ぶよ、と侘助が可笑しそうに小さく笑った。
「埋める? 何だ? 骨の成る木でも生えてくるのか?」
 神《GOD》の逆名《DOG》を与えられた高尚たる生き物は首を傾げた。

 その家には、大層立派な番犬がいる。そういうことになっている。


桜の木の下には





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